原風景としての住まい

2021.07.01

大好きな、吉本ばななさんの作品「TUGUMI」に、次のような場面があります。幼い頃から海のそばで育ったまりあが、大学入学に際し東京へ移り住む日が近づいたある日、まりあはいとこのつぐみと海を眺めながら思います。

"私は海のない場所に越してゆくことが、どうしても信じられなかった。いい時も、悪い時も、暑くて混んでいても、真冬の星空の時も、新年を迎えて神社へ向かう時も、横を見ると海は同じようにそこにあり、私が小さかろうが、大きくなろうが、(中略)初デートだろうが、失恋しようが、とにかくいつもしんと広く町をふちどり、きちんと満ちたり引いたりしていた。"

そして思います。

"都会では、人はいったい何に向かって「平衡」をおもうのだろう。"

まりあのこの問いは、とりわけ母になって以降、私の頭の中に常に存在し続けています。まりあにとっての海。一言で言えば、拠り所になりうる強烈な原風景。家族が暮らし子供たちが成長する場を設計する設計者としては、設計監理を経てお引き渡しする住宅が、年月を経てそのような存在となってくれることを願わずにいられません。

「海」は少しスケールアウトし過ぎてしまうので、私自身の幼少期の記憶を思い起こしてみます。私はとある公団団地の401号室で育ちました。大変コンパクトな3DK 46m2。しかし鉄筋コンクリートのどっしりとした、重みのある安定感を身体的に感じていました。南北に風が抜ける心地よさ。子供でも外せる軽いふすま。ふすまを外すと感じられる開放感や空間の広がりは、今もリアルに思い出します。

記憶を辿ると一住戸にいながらも、一棟の鉄筋コンクリートの力強い存在、さらには同じつくられ方で計画的に立ち並んだ棟たち。その規律のようなものを感じていたのです。

それは全くもって即物的であり、こちらを気にかけることもなく、ただそこに「ある」。強烈に自律した物体の世界です。まりあがいう「平衡」と近い存在だったと思います。

まりあにとっての海も、団地のコンクリートによる構造体も、向こうからこちらに向けてこまやかに働きかけてくれることはありません。向こうの論理で、ただ「ある」だけなのです。

ひるがえって、近年のスマホやタブレット、ゲームといった電子デバイスが提供するコンテンツは子どもたちにとって大変魅力的で、簡単に心をとらえます。与えられるものを享受するだけで、いくらでも時間を過ごすことができます。

そういった環境は逆らいようがないもの。うまくつきあい、ひいては使いこなすことが課題です。コロナショックで活動が制限される昨今、その課題はさらに切実でもあります。
だからこそ、リアルに時を過ごす住まいという場は、家族が「平衡」を感じることができるような、自律的な存在としてつくり続けたいと考えています。これまでも、そしてこれからも。